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本ブログで真面目なことを書くので、こちらではごく日常的な雑記で行きたいと思います

【健全に過ごすために】嫌いな人を作らない

 

 

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時間をどのように費やすか 

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まず突然だが、普段時間をどのように費やしているかを考えて欲しい。

平日は最低でも8時間働き、電車に揺られている時間は行き帰り合わせて1時間くらいだろうか。家ではテレビの前で過ごす時間、PCの前に座っている時間、お風呂に入っている時間、いろいろあると思う。

今回考えたいのは、物理的に自分がどのような場面で時間を過ごしていかということではない。どのような場面においても、自分の脳味噌と心は自分の中にある。常にくっついて離れない。

今回考えたいのは、何を考えて時間を過ごしているかである。

 

お金のことを考える

ボクの場合は借金がある。だから、今月はどれくらい貯金して、どれくらい返済に充てて、どれくらいを自由に使うことができるのだろうか。そういうことを少しは考えてしまう。クレジットカードの利用額を見てヒヤッとすることも少なくない。

ちなみに、お金の心配をしているときはちっとも楽しくなんか無い。

宝くじがあたったり広告収入が増えていたり、そういうことを考えるのは楽しくても、大体頭に登ってきてしまうのは心配事だ。

お金に余裕のある人というのは、どこか心にも余裕があるように思う。その結果性格も良く感じる人が多い気もする。まあ性格は人によるか。自分は偉いと勘違いしているような人もいるし、非常におおらかな人もいる。

いずれにしても、お金の心配をするという負担の掛かる作業を心と脳から完全に除外できることは大きなことだ。性格の良し悪しはともかくとして、彼らには余裕がある。

 

ご飯のことを考える

これは楽しい。

ボクはどちらかといえば少食だ。だからこそ、1回1回の食事を大切にしたいと思っている。コンビニで済ましてしまうのは勿体無いなと考える(現実的には済ませてしまうこともあるが)。

今日はあそこのお店に行ってみようかな、とかグーグルマップを見ながら考えるのはワクワクする。

いざ行ってみて定休日だったなんてこともしばしばある。ちゃんと調べていない自分が悪い。ガッカリしつつ、そういうときにはサラッと近くで済ませたりもする。

いずれにしても自分が楽しみにしていることを考え、妄想にひたるのは楽しい。楽しい考え事を心と脳に負担が掛かっているなんて実感はない。

 

嫌いなヤツのことを考える

好きな人には幸せになって欲しいし、嫌いな奴には不幸になってほしい。いや、幸せになってほしいと自然に思ってしまう人を自分の好きな人と定義し、不幸になってほしいと自然に思ってしまう人を嫌いな奴と定義するのかもしれない。まあ理屈はどうでも良い。

とにかく嫌いなヤツのことを思い浮かべていることは多々ある。

それは上司かもしれないし同僚かもしれないし、昔付き合ってた恋人かもしれない。どういう人なのかはわからないが、ひどく嫌いな人間が目の前を通った瞬間、無視せずには居られない。

(今から、上司に会いに行くようだ。この前の仕事の失敗を怒られてしまえ。)

(あいつ、仕事をコソコソサボってるな。早くバレちまえよ)

(スマホ歩きしてるな…。そこの階段で踏み外せ!!)

いろいろなことを思うかもしれない。ボクほど皆はハッキリとした不幸を想像しないかもしれないが、やはり嫌いな奴のことを想像していると、それに付随したネガティブなことを考えてしまう。これは自分の心にも脳にも負担が掛かっているような気がするのだ。

何より時間の無駄である。

だから、嫌いな人のことなど考えないほうが良い。だけど、嫌いな人間に対して自分の頭は想像以上に敏感だ。過剰であるとさえ言える。嫌なことを想像するとストレスも大きい。まるで嫌いな奴に支配されているかのようではないか。

 

一番早い解決策は嫌いな人など作らないこと

 

嫌いな人を作らない

 

好き嫌いは誰にでもある

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ボクは人を嫌いになることそれ自体が悪いことだとは思わない。

恐らく相性はあるし、合わないものは合わないのである。それ全てに自分が合わせにいってしまっていたら、いつか心がズタボロになってしまうだろう。

大事なのは好き嫌いなんて誰にでもあるし、あっても良いということを認めてしまうことである。

もしも好き嫌いなんて本来無いはずである。みんなが話しあえば分かり合えるはずである。と思っていた場合には、好き嫌いがあるのはどちらかが何かを間違えているからだと感じてしまう。そして自分が間違っていないのだとしたら、相手が間違っていると考えるより他ない。だから合わない奴は皆嫌いになってしまう。

違う。物事が正しいか間違っているかに絶対的な基準など無いし、仮に基準を作って是非を決められる場面が合ったとしても、好き嫌いとは話が別だ。極端な話、「いつも正しいことを言うあいつのことが嫌いだ」という理不尽な嫌われ方も十分にありえる。

 

何が嫌いなのだろうか

「いつも正しいことを言うあいつが嫌い」という場合には、正しいことを言うから嫌いなのだろうか。そうではないだろう。きっと言葉遣いが荒かったり、言うタイミングが悪かったり、嫌いなのは別の要素であるに違いない。

嫌いな部分をハッキリと見つけるのは意外と有効だ。逆にそこが我慢できるなら何とかなるかもしれない。あるいはその部分が改善される場合もあるかもしれない。

嫌いを1つ見つけたくらいで「嫌いな人」と決めてしまうのは勿体無い。

 

好きと嫌いは紙一重だ

今、好きだと思っている人間、あるいは嫌いだと思っている人間をそれぞれ思い浮かべて欲しい。その人との出会い方、最初に話した内容、それがもしも現実と異なったものであったならば、関係性はどうなっていただろうか。

つまり記憶を消して、最初から出会いをやり直した場合、今と全く同じ関係性を再現できるだろうか?

ハッキリ言って、人の印象などは順序やタイミングによる。最初に嫌なとこばかりを見てしまったら、その後の良いところは無視してしまいガチだし、最初に良いところばかりを見てしまったら、嫌なところを見たときそれは偶然だと思いたくなる(だから第一印象は大事だとか言われるわけだが)。

 

今の関係性は偶然かもしれない。もちろん相思相愛の関係ならば、その偶然を讃えればいいだろう。しかし、嫌いな人が偶然にもできてしまったならば、それは不幸なことだ。なぜなら嫌いな人はフッと勝手に意識に登ってきては時間を食いつぶすからだ。

 

僕達は本当にその人が嫌いなのだろうか。嫌いな部分を見つけただけなのではないか。きっと「嫌いな部分」なら好きな人にもあるはずだ。「嫌いな部分が目立っている」あるいは「自分が過剰に反応している」だけな可能性もすごく高い。

 

嫌いな部分は合っても良い。人を愛そう。

好き嫌いは合っても良い。そういう部分を誰しも持っている。けど、その人自体を嫌いになってしまうのはやめよう。人を愛そう。

そうしないと嫌いな人に頭を支配されてしまう。多くの時間を無駄にしてしまう。ストレスも抱えてしまう。逆に嫌いな人が居なければ、急に頭に嫌な人間が思い浮かび、大事なサッカーの得点シーンを見逃したりすることもなくなる。

そして、それだけではない。1ビットの判断基準で人を恨むようなことがなくなると、悪い部分と良い部分の分離が合理的に行えるようになる。自然と人にやさしくできるようになる。優しさは必ずまわりまわって自分に戻ってくる。科学的根拠はない。けど、本当にそうだ。信じたくなければそれでも構わないが、愛情を持って人と接するのは本当に大事だ。

 

嫌いな部分とどう付き合うのか

一番嬉しいのは相手の嫌いな部分が改善され、嫌いではなくなることだ。しかし、そもそも好き嫌いなんて人による。「改善」なんて言葉を使っては見たが、自分にとって都合が良い(すなわち合っている)ことが世の中の正義ではない。

人を直そうと思うのはかなり難しい。ときに傲慢だ。思い返せば嫌いな部分というのは好きな人に対してもあるはずだ。それがどうして目立たないかというと、それ以上に好きなところを知っているからではないだろうか。

相手の良い所を探すのは大事だ。嫌いな人を肯定するために良い所を探すのは中々に苦痛かもしれない。しかし順序の問題である。先に好きなところをたくさん見つけていたならば、こうはならなかったのだ。今1度、その人と出会った気持ちで良いところを見つけよう。

それでもきっと嫌いな部分は残る

仕方のないことだ。

ところで嫌いな人間のこれまでの人生を全て知っているだろうか。なぜその人にはそのような、自分が嫌ってしまうような性質が備わっているのであろうきっとその環境に置かれた場合、やはり自分もそうなってしまったかもしれない、と同情することだ。。もしもその環境をシミュレートして、自分がその立場になったら、その自分が嫌いだと思ってしまう性質を避けることはできたのだろうか。その答えは誰にもわからない。そして別に知らなくてもいいと思うし、やはり知ることなどできない。

大事なのは、きっとその環境に置かれた場合、やはり自分もそうなってしまったかもしれない、と同情することだ。

そいつが人の話を遮って悪態を付くような人間ならば、きっとそうしなければならない理由が今まで人生の中であったのだろう。そして、その人生の中に自分が代わりに身を置いてたとしたら、やはり自分もそうなっていたかもしれない。と思ってやることだ。

一度「あなたのことを理解している」と相手に伝わると、相手の態度も意外と変わる。嫌いだった部分がなくなる時さえある。やはり愛情を持って接するのだ。

 

 

どうしてもダメな場合

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ここまで書いてきたことは必ず役に立つ。自分が好き嫌いの多いタイプの人間であったから間違いない。好きか嫌いかであからさまに態度が違うものだから、ボク自信が人から怖がられることもあったし、避けられてしまうことだってあった。

嫌いな人を作らないようにする意識と、そのための愛情を持って誰にでも接しようという心は、そんな自分の人生の中で大きく役立っている。ストレスもだいぶ減っただろう。

 

しかしそれでも絶対にどうしようもならない場合もあるかもしれない。

そういうときには心の中でそいつには死んでもらおう

もちろんやれることはやった後の最終手段である。嫌いな人を思い浮かべるのは、もはや人生の時間を無駄にし、ストレスを溜めること以外に何の訳にも立たない。もう存在を記憶から抹消してしまったほうが良い。

 

心の底からどうしても嫌いな人間というのは、頑張って接してみても、良いところや学べる部分などを見つけられなかったということである。そんな極めて重要性の低い人間に割いてやる時間などはない。もっと有意義で楽しいことに頭の労力と時間を費やそう。

 

 

 

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