まずはじめに
僕自身はゴリゴリの合理性追求型人間(しかし合理的判断が常にできるとは限らん)であり、自分自身が無意味だと感じることは全くもって時間を掛けたくないと感じるタイプの人間だ。自分が興味を持たなければ反応すら示さない。
興味がない話を長々と聞いてあげたり、思ってもいない発言で相手の機嫌を取ったりすることは極めて苦手な行為である。
しかし、おそらくお世辞はお世辞と分かっていても嬉しい。
あまりにお世辞を連発する人間を見かけた時、「こいつ自分を煽てて、何かを引き出そうとしているな」と思うこともあるかもしれない。それでも褒められることそれ自体が嫌だというわけではない。
大抵の人も然りである。お世辞でも褒める、良いところを見つけるというのは、人間関係を築く上で極めて重要なことだと思う。
お世辞は必要なのか?
好意は正しさに勝つ
物事は至ってシンプルである。悲しまれるより、怒られるより、喜ばれたほうが都合が良いのである。なぜなら、
「好きか嫌いか」というのは、時として「正しいか、間違っているか」を上回る判断基準になるからだ。
例えばアーティストの音楽的評価をしてみたりすれば分かる。音程が取れているとか、声量があるとか、こういうことは定量的に評価できるし、歌が上手い要素になるのは明らかである。でも好きな音楽家を挙げるときに大抵の人間は、好みで持ってして「歌が上手い」とまで言い切ってしまう。
この歌手は歌が下手だと、Youtubeのコメント欄で書いて回ってみよう。それが仮に真実だとして袋叩き間違いなしである。
正しいことを言って嫌われることなど沢山ある。
逆にちょっとしたお世辞で好意を得られることも多々ある。
軽いお世辞を言うことで喜んでもらえるなら、それは好意を得る手段になる。
これは慣れ合いをしようというわけでも、相手を騙して味方に付けようというわけでもない。世の中嫌いな人間の言葉には耳を傾けてくれない人などたくさんいるのだ(それが良いことか?という話はどうでも良い。事実そのような世界に生まれ落ちたのである)。しかし、好意を持たれていれば、とりあえずは耳を傾けてくれる。
好意という貯金を作っておくと、ここぞというときで正しいことをズバッと言う機会が得られるのだ。
誰も損をしない
重要なのはお世辞が仮に嘘を含んでいたとしても、そのことで損をする人など誰もいないということである。
例えば、30歳を過ぎたであろう女性に「20代に見える」と言った場合、それが本心でなかったとしても相手は嬉しいだろう。そして、それによって損する人はいるだろうか。
15年も乗り続けた自動車を買い換えに来た人に対して、営業マンが「こんなにボロボロならそろそろ買い換えましょう」と言うのと、「きっと大切に乗っていたので長持ちしたのでしょう。次の相棒はいかがにします?」と言ったのでは印象は異なるでしょう。
お世辞を言う本人の本心など誰にも知らぬことである。仮に、お世辞なのだろうと分かったとして損もしないし、ましてや嫌うことなど無い。
そして、お世辞によって変わるのは言われた側の心持ち(良く思う)のみであり、現実世界に悪い影響など無いのである。
お世辞は重要なスキルである
お世辞が必要かどうかは、正直環境によると思う。
あなたのいる世界では全てが合理的に進み、人間の感情が入る余地が一切ないというのであればハッキリ言ってお世辞は不要だ。お世辞は聞く側の心持ちに影響を与えるだけで、何らかの論理に影響を与えられるものではないからだ。
一方で、あなたのいる世界が少しでも人間味を含んでおり、感情が介入するシーンが存在するのであれば、お世辞は有力な武器になるのである。そしてこれは、ほとんど全ての世界でそうであると私は思う。
なんであいつの話は通って、自分の話は通らないのか。もちろん論理的に自分が間違っているということはあるかもしれない。しかし、どう考えても自分のほうが正しいのに、なのに聞き入ってもらえないとしたら、それは恐らく好意の差である。
好意の無い人間の話は、そもそも耳に入ってすらいないのである。
お世辞とは
お世辞といえば上司へのゴマすりの道具のような印象があるかもしれない。もしもそれだけの理由でお世辞そのものを悪と感じるのであれば、コンピュータが弾道ミサイルの計算に使われたという理由で、コンピュータを悪と決めているくらい愚かである。
あなたの敵ではないという表明
お世辞によって、相手に対して自分は「あなたの敵ではない」という表明ができる。
いつでもよく知らない人間との対話は怖いものである。相手がいつ自分を攻撃対象にするか分からない。あなたの論理を尽く打ち崩してくるかもしれない。
ときには、あなたの論理を打ち崩すこと自体を快感に感じているのでは!?と思うようなこともあるかもしれない。最悪のケースでは暴力的な行為に及ぶ場合もあるかもしれない。
そして、同様に相手もそのようなことを気にしているかもしれない。
特に最も恐ろしいのは「論理的に正しいこと言う、自分のことを嫌っている人間」と対面することである。
こいつはいつ自分に牙を向くだろうか。
理論武装で自分を打ち崩してくるかもしれない。
ましてや自分を嫌っているとすれば、全く歯が立たない口喧嘩で、自分の考え全てが否定されるかもしれない。
自分は「お世辞が苦手で、自分は論理的な人間だ」と、あなたが感じるのであれば、上記のように恐れられてしまう側であるケースが多いと思う。
そんなとき、もしも少しでもお世辞を言うことができれば、相手に対して攻撃的ではないと表明できる。相手は安心するし、いざ重要なことを述べる時(それが相手の意に反することであったとしても)嫌いで言っているのではないと感じてもらえる。
最もシンプルなお世辞
ここで誰にでもすぐ使える、最もシンプルなお世辞を紹介する。それは
「I like you」
である。日本語だと難しいかもしれない。「あなたが好きだ」と突然言ったら変な人だと怪しまれるかもしれない。ただ伝えたいニュアンスは「I like you」である。これをどのように表現するかは、任せる。
これは端的に述べれば、自分が相手に好意を持っていると伝えていることになる。敵ではない表明どころではない。もはや味方であると言わんばかりである。
自分に好意を持っている人間に対して、同じようにオウム返しをしてくれるかはわからない。それでも多くの人は好意を示してやれば、大なり小なり自分に対しても好意を示してくれる気がするし、少なくとも好意を抱かれている事自体を「嫌だ!」と思う人はいない。
別に難しいことはない。相手の気に入った部分を一つでも指摘してやり、「そういうとこ好きだ」って伝えるだけでいい。かぶっている帽子が気に入ったらそう言ってやればいい。着ている時計が活かしていたらそう言ってやればいい。髪型でも耳の形でも何でもいいのである。
自分に関心を持ってくれている、しかも、ただの関心ではなく好意である。嫌な気分になるわけがない。
相手の良い所を見つける
お世辞のもう1つの側面は、相手の良い所を見つける。あるいはその部分の良い表現を見つけるということである。
同じようなことを表現するにも、その方法はいくつかある。
「200個しかない」
「200個もある」
は「200個ある」という事実に対して印象が全く違う。
もちろん、論理的な文章を組み立てる上では、話の流れによって正しい表現を使うべきだろう。しかし、相手に好意を持ってもらおうというときに、その真実味がどうでも良いような場面で、わざわざ嫌な言い方を選ぶ必要はない。
背が低いという事実があるときに、それを表現する方法はいくらでもある。古い物を使っている相手にそれを表現する方法はいくらでもあるのである。
表現を変えることによるお世辞
まずはメガネを掛けた人に対して、
「なんか暗そうな雰囲気だな、メガネを取ったほうがまだマシだよ」
「メガネ取ったらすごく明るそうだね」
どっちの表現の方が良いかは明確だろう。メガネを取って「明るそう」と思ったかは知らないが、その程度の嘘は心の中で留まる些細な話である。
先程も見たが、自動車営業マンが、
「こんなにボロボロならそろそろ買い換えましょう」
「きっと大切に乗っていたので長持ちしたのでしょう。次の相棒はいかがにします?」
これも大切に乗ってたかどうかなんて知ったこっちゃないが、同じように現実を進めようとする上で、相手の気分はどっちが良いだろうか。
お世辞なんて言うと仰々しいかもしれないが、自分の言葉の表現をちょっと変えるだけでもだいぶ効果はある。
最後に
僕は基本的にお世辞とかを言うのは極めて苦手なタイプだった。
真実を告げることがいつでも正しいと思っていたし、論理的な正しさこそが、誰にでも普遍的に通じる共通の認識であると信じていた。
しかし、現実はそうではない。
そして自分自身もそうではないことが分かった。
お世辞と分かっていても褒められたら嬉しいし、理詰めで正しいことを言われても、相手の態度が攻撃的だったら嫌な気持ちになる。
論理的な正しさを重要視するような人間である自分がそうなのだから、きっと殆どの人間はもっと感情的であると思う。
自己啓発的な内容は時として馬鹿にされているが、僕は試してみてからにしてくれと思う。
お世辞は抜群に効力がある。