HELLO REALWORLD

本ブログで真面目なことを書くので、こちらではごく日常的な雑記で行きたいと思います

トイストーリー4感想【注意:ネタバレあり】

 

 

follow us in feedly

 

はじめに

 この記事はトイストーリー4を見て思ったことを書き連ねた記事です。

決してトイストーリー4の詳細を説明するための記事ではありませんが、思ったことを述べるために、トイストーリー4がどんなストーリーであったのか、どういう描写があったのか、などを記事中に書いています。 

トイストーリー4をまだ見ていない人にとっては当記事によって楽しみが奪われる危険性があり、いわゆるネタバレになっている要素を多分に含むため、閲覧には注意してください。

 

 

 

 

 

ネタバレ要素を意図せず見てしまわないように空行をいくつか入れます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物語の結末

いきなり、大きなネタバレをしてしまいます。これが今回、自分が思ったことの本質的な部分であるため、どうしても最初にもってこざるを得ませんでした。

既にご覧になった方々はご存知であると思いますが、これまでのトイストーリーの物語、あるいはウッディ(トイストーリーの主役であるカウボーイのおもちゃ)の信念からは明らかに異なる結末となっていました。

それは、

 

ウッディが自分自身の持ち主である子供ボニーの元を自ら離れる

 

というものです。ウッディはこれまで、自分の持ち主である子供を喜ばせることこそが玩具である自分の使命であると考えていました。トイストーリー3までは(いや、本作でも途中までは)これが彼の行動の根源にありました。

ところが本作では、その信念が覆るのです。トイストーリーファンにとっては、これは「悲しい」あるいは「許しがたい」ような出来事だったのかもしれません。ネット上でも意見は大きく割れているように見えます。

 

ウッディの決断の理由

物語の最後でウッディは、迎えに来た相棒バズ(トイストーリー1からいる準主役的な玩具で、ウッディの一番の相棒)に背を向け、ボー(元々はウッディと同じ家にいたが、現在は持ち主がいない野良の玩具)と共に「持ち主がいない状態になること」を選択をしました。

実は物語の中では、ウッディが子供の元を離れるかどうかを迷っているような描写が強調されるようなシーンは(僕が気づいた限りでは)なかったと思います。つまり、ウッディが子供の元を離れる決断をした決定的な理由は、物語の中で説明がなされていないのです。

したがって、ウッディが子供の元を離れた理由は映画を見た人それぞれの解釈に委ねられます。解釈の仕方はいろいろあると思います。そこで映画の中でウッディに関して描写された事実を一旦列挙しましょう。

  • ウッディは持ち主であるボニーには遊んでもらえていない
  • ボニーの心の支えになりそうな玩具の出現(フォーキー)
  • かつて同じ家にいたボーが、持ち主無しで真っ当に生活をしていることを知る
  • ボーが家からいなくなってからウッディはボーをずっと気にかけていた
  • 持ち主に限らず、遊びに来る多くの子供を喜ばせる玩具を目の当たりにする
  • リーダーシップの欠如により他の玩具に(一旦)呆れられる
  • ウッディの背中にあるボイスボックスが不良品と取り替えられる
  • 選ばれることを待ち望みながらも、選ばれなかった玩具を目の当たりにする
  • 生きる道を失った玩具を、子供のもとに送りだす
  • 「ボニーは大丈夫」という一番の相棒バズの言葉

ここから考えられる理由は様々あります。

  • 持ち主であるボニーに遊んでもらえておらず、フォーキーの登場で自分の役目がなくなったと感じた。
  • ボーのような自由な生き方に惹かれた。
  • ボーという存在自体に惹かれた(恋人として意識し、一緒にいたいと思った)。
  • 自分が旧来の玩具たちのリーダーとして失格であると思った。
  • 子供を喜ばせるという信念はそのままに「持ち主」に拘ることを辞めた。
  • 選ばれなかった玩具を、他の子供と巡り合わせることに使命感を感じた。
  • ボニーを楽しませるという使命を、自分のできる範囲で達成した

などが考えられると思います。もちろん、全くそうではないだろう!ということから、複数絡まって初めて理由として成立するであろう事柄まで上げました。ウッディも感情を持つ玩具です。劇中で起こった事実を列挙するに、決断の決定打になったかは別として、上記のような感覚をウッディが(大なり小なり)憶えたとしても不自然ではないでしょう(ウッディはもっと更にいろいろなことを考えていたはずでしょう)。

 

 ウッディの決断に対する感想

まずトイストーリー全体からして、ボニーの元を去るウッディの決断は、「持ち主である子供を楽しませる」というトイストーリーが始まった当初からあるウッディの信念が曲がったのではないかと見えなくもないです。しかし僕はそうは思っていません。

元々、「アンディの玩具」として生活を全うし、その後「ボニーの玩具」となっており、「持ち主の元を離れる」という出来事それ自体は既に起こっていることです。

今回特筆すべき点は、「持ち主の元を離れる」という決断をウッディ自身がしている点です(ボニーの元へ来たのは、アンディがウッディをボニーへ譲ったから)。

言い換えるならば、「持ち主の元を離れること」は本質的な部分ではなく、「ウッディが自ら離れた」ことが今回の重要な点(そして、様々な感想が飛び交う点)だと思われます。

 

いや、それにしてもボニーにウッディが全く遊んでもらえてないという状況に至る経緯は一切語られていない。ウッディが好きな人にとってはウッディの扱いが酷かった!という、トイストーリーのキャラクターを愛するファンとしての意見もある。

 

また、玩具が人前で喋ったり、これまでのキャラクターの活躍のシーンがあまり無かったり、ボニーのお父さんがひどい目に遭いすぎている等、一視聴者としての不満はたくさんあるようだ。

 

しかし、当記事は、あたかも自分がトイストーリーの世界の住人であり、ウッディを同じ目線で見てきた誰かであるとして、ウッディの決断に関する感想を述べる。あたかも現実の世界で友人の何らかの決断を目の当たりにしたかのように述べる。

 

映画の視聴者は映画の世界のキャラクターから比較すれば、神のような視点を持っている。物語の全容を知っているし、これがフィクションであることも知っている。ともすれば、映画の世界や進行に納得が行かない神がいることもよくわかる。

ちなみに神視点だったら、これおかしくない?と思うところは結構ある。しかし繰り返しになるが、この記事はトイストーリーの世界の中でウッディを見てきたつもりで感想を述べるので、物語の説明が不十分であるとか、そういう神視点のことには言及しない。映画の評論をするわけではない。ので、そちらを期待している方は申し訳ありません。

 

立場の違い

ウッディはこれまでアンディの一番のお気に入りとしてアンディを楽しませ続けてきた経歴があります。そして、アンディの成長によって役目を終え、ボニーの元へやってきました。ところがボニーの元ではアンディは一番のお気に入りではありません(それどころか遊んですらもらえない始末)。

 

そうなったとき、ウッディにとっての役目とは何でしょうか。言い換えるならば「持ち主である子供を楽しませるのが玩具の役目である」という信念を持ちつつ、もしも自身がボニーと直接触れ合うことができないのだとしたら、何をしたときにボニーへの役目を終え、信念を貫いたと言えるのでしょうか。

 

今回は幼稚園でボニーを見守り、フォーキーという玩具の誕生を支援し、そしてフォーキーが玩具としての自信を持つことを手助けし、実際にボニーはフォーキーを一番のお気に入りとして愛しています。確かにウッディの行動が、ボニーの人生を楽しませるということに繋がったのです。ウッディは十分に役目を全うしたと言ってあげていいでしょう。

むしろ、自分と遊んでくれない子供が自分ではない他の玩具を愛し、なおもその玩具に嫉妬せず、その玩具を励まし守り通したというのは、常識的には考えられない人格者だと思います。

 

ただ、一番のお気に入りではない、という立場だけが異なったのです。立場が違えば、信念を貫く行動の形も変わるでしょう。

 

実はアンディの玩具であったときも、ウッディという主人公に劇中では焦点があたっていただけであって、登場すらしなかった玩具をアンディは持っていたはずです。そして彼らが、どう生きたのかは分かりませんが、もしも知らぬところでウッディのことを支え、アンディとうまくやっていく 助けになっていたのだとしたら…、どうでしょうか。今回はウッディがその役回りだったのです。

 

ウッディはこれまでリーダーだったため、子供を楽しませることに関して最大の責任を有していました。「もしも自分がいなかったら、子供を楽しませることはできない」と考えていたとしてもおかしくありません(決して他の玩具を信用していなかったのではなく、とてつもなく強い意思故)。

しかし、フォーキーを送り届けた後、最大の相棒バズに「ボニーは大丈夫」と告げられたウッディは「しっかり役目を果たした」という実感を得たことでしょう。

 

役目を受け入れる 

ウッディの場合は、役目を受け入れることが非常に早かったです。もしも自分がウッディなら、この葛藤に多くの時間を割いていたかもしれません。その葛藤とは、「自分は玩具としての役割を担うため、遊んでもらわなければならない。どうすべきか…。」というようなものです(当然、押入れの中でウッディは十分に考えたのでしょうけども)。

しかし、ウッディがアンディの成長によって「自分と遊ばなくなる」ことを受け入れているのですから、苦しさはあれど、子供のボニー(女の子)が「自分と遊ばなくなる」ことが受け入れられないというのは、少し筋が通らないでしょう。

もしもこれを受け入れないとすれば「すべての子供は自分を選び、そして自分と遊んで然るべきである」というエゴがあるということです。

しかし、アンディの意思を尊重し、ウッディはアンディの元を離れたのです。そしてボニーの意思がアンディと遊ぶことを(悲しいが)求めていないのならば、彼女の年齢がどうであれ、それは尊重すべきであるはずです。

そんな中でも腐らずにボニーを楽しませるということに徹したウッディが、「信念を曲げた」と批判されるなんてあまりにも可愛そうだと思います…。

 

信念を貫く場所

子供を楽しませるのが玩具の使命だとするならば、なぜに持ち主に拘る必要があるのでしょうか。もちろん持ち主を楽しませずにその場を離れたとするならば、それはその時点で信念を貫かずに終わってしまったことになります。しかし上記で述べたとおり、

ウッディは十分に、アンディとボニーを楽しませる役目を果たしてきたと思います。

だから、ウッディは更に多くの子供を楽しませるために「持ち主」のもとを去ったのだと僕は思っています。信念は場所や家、子供に宿っているわけではありません。家が、子供が、ウッディに「自分たちを楽しませろ」と強迫観念を植え込んだわけでもありません。子供を楽しませるというのはウッディの信念なのです(実際、これまでにも子供を楽しませたいと思わない玩具はいた)。ウッディはその信念を貫く場所を広げただけなのです。

「子供は世の中にたくさんいる」という描写は、劇中でもなされましたね。持ち主がいない玩具であることを揶揄する「迷子の玩具」という言葉を浴びせられたボーが、ウッディに対して「迷子はどっち?」と言い返したシーンをよく覚えています。子供を楽しませるという信念を抱えながら、自分は直接子供を楽しませるに至っていない、信念の下に迷子であったウッディにとってはとても手痛い言葉だったでしょう。

もちろん、フォーキーを連れ戻し、ボニーを喜ばせるという重大な役目を果たしている最中ではあったのですが…。

 

ウッディ個人の自由意志

賛否は別れるかも知れませんが、ボーへの個人的な感情があったことも伺えます。フォーキーを連れ戻すという役目の途中、そのまま帰れば任務完了というところで、ウッディーはボーの気配を感じ、「ボーがいるのではないか…?」と考えるだけでなく、実際に探しにいってしまいました。当然、おもちゃとしてのボーはたくさん世の中にあるはずで、そこにボーの玩具があったとしても、時を共にしたボーであるかも分かりません。

かなり低い確率の中、わざわざ寄り道をしたのですから相応に思い入れがあったことでしょう。そして、そこで力強く生きているボーの姿を目の当たりにして、自分の信念と、自分の生き方に関して再考することとなったのです。

 

もしも、そこで出会ったのがボーでなく、見知らぬ玩具であったとしたら、最後の決断は変わっていたかもしれないと僕は思っています。

 

ボーはウッディと出会った時点でそもそも持ち主に拘る必要がないと最初から考えている玩具でした。「持ち主がいない玩具は、役割を全うしていない玩具である」と心の何処かで見下しているような様子のあったウッディが、名も知らぬ良くもわからない玩具の意見に耳をちゃんと傾けられたかは分かりません(当初、バズを心の底から馬鹿にしていたことを思い出してください)。

 

きっとそこにいたのがボーでなかったら、単にフォーキーを連れ戻して終わりだったのではないでしょうか。持ち主がいない玩具にも相応の生き方があるんだな、とウッディは改めるようにはなったかもしれませんが、その後の行動を共にするところまでは至らなかったでしょう。

 

もしかしたら、ギャビーギャビー(ボイスボックスの初期不良を抱える女の子の玩具。劇中でウッディのボイスボックスを剥ぎ取る)を新しい子供の下へ送り出すこともしなかったかもしれません(最悪の場合、ギャビーギャビーは悪役として終了し、ボイスボックスとフォーキーを取り戻すという勧善懲悪で終了だったかもしれません。仮にギャビーギャビーと和解しても、ボニーのところへ来るように言ったことでしょう。

 

ギャビーギャビーを自分の持ち主とは関係ない他の子供の元へ送り出したことも重要です。玩具を手にして見知らぬ子供が幸せになるという描写は、今後も世界のいろんな子供のためにウッディが行動をしていくことの決意の現れでしょう。

 

ここまで、「ウッディは信念を貫いている」と述べてきましたが、実際には玩具という立場としてのウッディの信念(子供を楽しませる)とは独立して存在する、個人としての意思が大きく垣間見えました。そして、独立して存在する意思でありながら、背反しているわけでもないことが重要です。

 

大切な信念を掲げながらも、その信念を達成する手段の形を、自分の自由意志で柔軟に選ぶようになったというわけです。

 

全体を通して

今回は、圧倒的に大人向けの内容になっていたように感じています。

ディズニーが好き、とか、トイ・ストーリーのキャラクターに愛着がある、というモチベーションでこの映画を見てしまうと、(悪い意味で)期待を裏切られたと思うシーンが何度も出てくるだろうと思います。そして、制作者もそれはよく分かっているのではないかと思っています。トイ・ストーリー3といえば、ほぼ完璧に終わりを迎えた集大成となっていたはずです。

それでもあえて型破りな結末を迎えさせたのは、社会の現状、あるいは今後のあり方を提示したかったのではないでしょうか。

 

今回、特に強調されたのは多様性であると思います。「自分をゴミだと思う玩具」、「初期不良を抱えるも子供のために役割を果たしたいと考える玩具」、「特定の持ち主に属さず、たくさんの子供を楽しませる玩具」などが出現しました。

 

別にこれまでもいろいろな性格の玩具がいましたが、今回、最大のポイントは「善悪や優劣を述べなかった」ことだと思います。

 

トイ・ストーリー1,2,3では、素行の悪い子供や、金儲けを企む大人、他の玩具の支配を目論む玩具など「悪役から玩具を救い出し、苦難を乗り越えて仲間や持ち主との絆を強調する」というものになっていました。

 

今作ではギャビーギャビーが悪役っぽい雰囲気を漂わせながらも、結局は、感情を持つ1人の玩具として「制裁」されること無く終わりました。玩具を救い出す展開はそのままでしたが、悪者なんていなかったのです(そもそも作中でもギャビーギャビーはフォーキーとずいぶん仲良くやっていた)。ある立場から見たらすごく悪そうに見えるかもしれませんが、人それぞれに考えや事情があるものです(そしてウッディは作中でギャビーギャビーの思いを受け入れているような様子であった)。

 

また、ウッディはボニーの元を去りましたが、決してバズを誘うこともしませんし、バズがウッディを止めることもしませんでした。それぞれの考えや、生き方を互いに尊重したのです。

 

「善悪」というのはあたかも周知の常識であるかのように使われ、「善悪」の基準からハズれたときには、世界の異常者であるかのように扱われます。そして世の中には、自分の損得や好き嫌いを「善悪」という言葉で置き換えて強弁する人たちがいます。「世界の威を借る狐」がたくさんいるのです(マスコミ?ネット?会社?どこにでもいるよ)。

 

実際には絶対的な善悪など、誰もその答えを持っていません(世界だってその答えは知らない)。答えを持っていないからこそ、それぞれが誰かに答えを求めること無く、各々の基準と向き合わなければなりません。この映画で意見が1つに定まらないのは、そもそも1つに定まるように作られていないからだと思います。

 

今、まさに個人個人の意思の自由、多様性が認められる社会になってきた(あるいはなってほしい)という思いが込められているように思います。