はじめに
好きなことで生きていけたらそれほど嬉しいことはないでしょう。
誰もが夢に見ることですし、誰もが人生で立ち止まる度に思うことかもしれません。好きなことをやってお金を稼いで、お金を好きなことに使って…そんな夢のような生活を送っている人は世の中にどれくらいいるのでしょうか。
今日はこのことについて考えてみて、自分の2018年の夏時点での考えの記録として残しておこうと思います。もしかしたら、今後時が経つにつれて考え方は変わっているかもしれませんが…。
好きなことは生まれた時から好きだったのか
生まれた時は真っさら
僕は時折、生まれた時のことを思い出したりします。実際にはその瞬間のことなど覚えていないのだから、思い出すというよりは思い浮かべるというのが近い。そういうときに、毎回思うのは、
きっと今の性格や考え方のほとんどが、(遺伝は多少あるのだろうけども)これまでの人生経験の中で構築されてきたものだろう。
ということである。
確か生まれた時は、好きなスポーツが何か、好きな教科が何かなんてわからなかったと思う。分かるも何も、知識として頭にないわけなので当然だ。
結果的に僕はサッカーを好んでやるようになったけど、じゃあスピードスケートをやったことがあるかって言われたらやったことなんて無い。これに触れる機会があったのならばどうなっていたかわからないだろうと思う。
今自分が好きだと思っていることは、いつから好きなのか
今、「自分はこれをやるのが好きだ」と言えるものがあるだろうか。それはいつ頃から思うようになったのだろう。まさか「生まれた時から」なんて本気で思ってはいないでしょう…?
きっかけが何かは思い出せないにしても始まりはあったはず。
僕がサッカーを始めた理由なんてすごく単純だった。友達がやっていたからだ。それ以外の理由は本当に無いのです。友達がやっていたから自分も一緒にやり始めた。細かいルールなんて知らないし、サッカー選手のことだって知らない。試合の中継を見ていた覚えもないが、単に遊びの一環としてやるようになった。
そして、いつからか好きになっていた。
因果関係があるかは知らない。だけど少なくとも、当時周りの子どもたちよりもサッカーが上手だったことは覚えている。頼られたし、先生にも褒められた。だからサッカーが好きになったのかもしれない。
何らかの満足感が好きの源
たしかに僕は、野球よりもサッカーの方が好きだ。バレーよりもバスケットボールの方が好きだし、ドッジボールよりもハンドボールのほうが好きだ。常にフィールドを動き回っているタイプの競技が好きで、これは明らかにプレイ中の楽しさに直結している。
楽しさは満足感を与えてくれるものだから、これは重要な要因だ。
けど満足感の形はこれだけではないと思う。他にたくさんある。すでに述べたとおり、それに努めていることで、褒められたり頼られたり、自尊心を得られるような場合にも満足感は得られるように思う。
自分が満足感を得られるシーンさえあれば、それを好きになる可能性があると思う。
好きは人生経験の中で生まれる
どういう満足感の得方が、好きということに結びついたかはわからない。だけれども、間違いなく人生経験の中で何かを好きになってきたのだろうと思う。そうであれば、今、何かが好きなのはこれまでの人生経験の結晶であるし、
それは言い換えれば今後の人生経験の中で好きなことが追加されていくということでもある。
このことは今後の生き方を考える上でもかなり重要なことなのではないかと思う。
得意なことを探してみる
タイトルの話題に入ろうと思う。
社会に出ると、経営者でもない限りは労働を通じて対価を得る形で生活を営んでいくと思う。ところで「すごく大好きで、やる気は満々である」というだけの理由で、誰かがあなたにお金を支払ってくれるだろうか。
きっと成果を出すには努力も時間も必要だ。「すごく大好きで、やる気がある」という状態は、「努力を惜しまないであろう」という指標にはなる。だからその結果として成果を出してくれるかもしれないという期待もする。
ここで経営者側の立場に立ってみよう。あなたには未来を見通せる神様が見方をしてくれている。ある求職者に関して、神様が「この人はやる気満々だが、生涯なんの成果ももたらさない」ということを教えてくれたとしよう。その人にお金を払いたいと思うだろうか…?
好きなことを突き詰めるとはどういうことか
「好きなことを突き詰めるか」を迷うことは無いだろうか。僕はサッカーが好きだったが、まさかサッカー選手になれるなんて思っていなかったし、実際なっていない。好きなことでありながら、ほとんど実現不可能であると分かっていたために、「好きなことを突き詰めるという選択肢を自然と放棄」していた。
この選択が正解だったのかは知らない。しかし、誰かに自分の力を買ってもらうのであれば、その誰かの役に立たなければならない。好きは直接的には売り物にはならない。サッカーくらい明確だと、未来を見通せる神様でなくとも、自分がプロサッカー選手として成果を出せないことなど見通せた。だからプロサッカー選手にならなかったのではないだろうか(もちろん、本当の意味で未来を見通せるわけではないが、かなりの確率でこの選択については当たっていただろう)。
しかし、「好きなことで生計を建てられるならそれが一番嬉しい」と、ふとよぎることがある。
すでに自分は好きなことを突き詰め続けて、それで生計を建てようということをアッサリと(ほとんど考えもせず)放棄していたはずなのにだ。
問題なのは、自分が「未来を見通せる神様ではない」ということである。
はっきり言って、「なにものにも貢献しないのに、好きなことがしたいです」は単なるわがままだ。これはもう間違いない(自腹でやる経営者なら話は別だが)。しかし、おそらく、世の中にあるたくさんの職業の中で、サッカー選手になれるか、ほど明確に「見込みはない」と判断できるケースは少ないだろう。例えばプログラマーならどうだろうか、プロとしてやっていけないことはない気がする。
好きなことを突き詰めていくというのは、それが労働者の立場としてである限りは、「単なるわがままな人」か「成果も(それなりに)上げる中で、更に飽くなき探究心を持つ人」のいずれかである。
得意であるかどうかを確認する
こういう時の自分の中での大事な指標は、「好きなのは結構なことだが、それはある程度は得意なのか?」ということである。
もう一度言うが、残酷だが、お金を稼ぐためには自分の仕事にお金を払ってくれる人が必要である。そこで、自分が不得意なことに対して、ただ好きで夢中でやっていますというだけの理由で、お金を払ってくれる人はいない(経営者も資本家も、別にボランティアではない)。だから、ある程度、必要とされるか最低でも足を引っ張らない程度にはできなければならない。
飯を食っていくには、得意(あるいは苦手ではない)という状況でなければならない(それか報酬の方をかなり我慢するかだ)。
残酷な話ばかりをしてしまったが、これは恐らく事実だ。世の中は労働者の方が多いので、当然世の中の不平不満も労働者の言葉が多いと思われる。だけど、仮想の世界でいいから一度経営者としての立場をシミュレーションしてみて欲しい。
得意なことは好きになりやすい
まるで救いようのない話をしているようであるが、肝心なのはここからだ。
得意なことというのは、苦手なことに比べて、物事が上手く運んでいく可能性が高い。というより、物事を比較的上手く運べるような場合に、それを「得意なことだ」と表現する方が正しい。
いずれにしても得意なことをやっていると状況は良くなって行きやすいわけだ。これは自尊心を保つのに十分だし、周りに頼られたり、褒められたり、たくさんそれを好きになる要素を含んでいる。
だからといって、これは好きになるために十分であるとは言えない。例として、毎日毎日丹念に食器やトイレを他の人よりも綺麗に洗っていたとすれば、褒められるし頼られるかもしれない。が、少しくらいはその取り組みそれ自体に興味がないと、好きにはならないだろう。
新しいことを始めてみる
僕は好きなことである程度詰まってきたと感じたならば、「新しいことを始める」ことをおすすめする。
(それなりの内容であるなら)その時は特に好きでなくても始めてみるのが良い。物事は思わぬところでつながっていたりするもので、新しいことを始めた後で、もともと好きだったこととの関連が見えてきたりすることもある。そうでなくとも、新しいことを始めてみて、あとから好きになったらそれで結構なことではないか。
そして、新しいことを、なるべく自分の得意そうなことから選ぶのがいいだろう。さすがに赤ん坊ではないのだから、これまでの人生経験の中から、得意不得意の大雑把な分類はできるはずだ。
結論
「好き」はあとからでも良い。
生きていくために稼ぐ必要があり、そして稼ぐためには「得意」な方が有利だ。
「得意」は「好き」になりやすい要素を多分に含んでいる。
行き詰まっているなら新しいことを「得意」を参考に始めてみるのが良い。