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本ブログで真面目なことを書くので、こちらではごく日常的な雑記で行きたいと思います

【心理学に利用価値は】対個人ではオーダーメイド対応が必須でしょ

 

 

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タイトルの意味

まずタイトルの意味はこの記事の結論になるのだが、

対個人ではオーダーメイド対応が必須

というのはどういうことかというと、簡単に言えば「目の前の人間としっかり向き合っていかなければなりません」という意味だ。

「○○な傾向がある」だとかの話をたくさん聞いたことがあるだろう。それは心理学などの科学的検証を受けて得られた事実かもしれないし、だれかの経験則に基づく話かもしれないし、あるいはペテン師の言う嘘かもしれない。いずれにしても

「○○な傾向がある」という人間の大局的な話を把握したとして、僕達が実際に接する人間はいつでも目の前にいるそれぞれ個別な1人の人間である。

それを忘れてはいけないという話をする。

 

 

 

心理学の意義

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心理学とは

例えば、たくさんの人間を調査して「借りを作ったら返したくなる」という傾向が実験によって認められたとしたら、それは人間の心理に生ずるルールであろうと考えられる(これは実際、「返報性の原理」としてよく知られているものである)。

心理学というのは、人間が物事をどのように考えるのか、そのルールを明らかにしたいという学問だと思われる。

だから、「人間の考え方には何らかのルールがあるのではないか?」という疑問が湧いたのならば、それを立証するような実験を組み立てることになる。返報性の原理というものが人間に本当に生ずるかを調べようとするならば、被験者をたくさん準備して、「予め借りを作るグループ」と「借りを作らないグループ」とで、お願いを聞き入れてくれる人の数に差があるのかを、統計を使って計算することになる。

 

もしかしたら、どれくらい大きな借りだったら効果的なのかにも興味が湧くかもしれない。そしたら、借りの大きさがどのような影響を及ぼすのかを明らかにするような実験を計画し、統計的な解析をする必要が出てくるだろう。

その細かい理屈はさておいて、統計で人間の物事の考え方の傾向を探っているのが心理学(の1つ)の姿であることを心に止めておきたい。

※ちなみにボク自身は「返報性の原理」を科学的に証明した論文を読んだことはないし、調べたこともないし、フォーマルに学びたいなら自分で調べてください。しかし、この記事でそれが科学的であるかはさほど本質的ではありません。 

 

 

一般人から見た心理学の存在意義

人間がどうやって物事を考えるのか。どういうときにどんな感情を抱くのか。このようなことは誰しもが大なり小なり考えたことがあるのではないだろうか。

基本的に学問というのは、根底に人間の知的好奇心というものがあり、まずは「知りたいから、気になるから」それを突き詰めようとする。これが科学の姿である。

 

ところで、犬の心理学だとか猫の心理学だとかが一つの学問として存在しているだろうか?確かに知的好奇心をくすぐる部分はあるのかもしれない。

僕は犬や猫、ゴリラなど、ある程度知能を持っていそうな動物は「今一体何を考えているのだろうか」とか思ってしまうタイプだ。しかし、学問としては存在しない(もしかしたら存在するかもしれないが、少なくとも僕は知らないし、すごくマイナーだろう)。やはり「心理学」といったら普通、「ヒト」を扱う。なぜだろう。

 

人の心理を知ることができれば、対人において困りごとを解消できるかもしれない。コミュニケーションを取るのが上手になるかもしれない。

 

と考えられるからだろう。

要するに、この心理学という科学は、実生活の中でも役に立つ(と考えることが出来る)。知的な興味もさることながら、それが何かの役に立つのではないかという期待も同時に何処かに存在するのである。

これはどのジャンルの科学でも同じかもしれない。いくら基礎研究(例えば宇宙の仕組みとか)で、知的好奇心に従って研究をしているだけにしても、心の何処かで何かに使えたら面白いと思うだろうし、あるいは資金を提供している側や一般社会の人間は特にそう思うはずだ。

 

心理学を役に立てたいと考える

というわけで、心理学を学者・研究者として扱っている人間以外(彼ら自身も)は、たいてい役に立つのではないかという期待を大なり小なり心に持っているはずである。そして僕もそうだ。心理学を学べば、何か役に立つのではないかと思っている。

例えばメンタリストのDaiGoなんかは心理学を使って相手の心を読むらしい(嘘か本当かは知らん)。

また、行動経済学は人間の心理を経済モデルに組み込んだものであり、心理学を応用して経済の動向を理解したり、マーケティングに活かそうという動きもあるようだ。

僕は専門家じゃないから「心理学を使うと何が分かって、具体的にどのように役に立ち、そしてどのような利益を生み出すことが出来るのか」については知らない。マーケティングの方法も知らないし、どのような戦略を取れば購買意欲を掻き立てられるのかなんて全く見当もつかない。

 

ただ、それでも社会で生きていく限りビジネスには携わらなければならないし、ビジネスではなくとも人間と接することはしていかなければならない。つまり人間の心理を理解しなければならない場面は必ず訪れる。

 

と思うのである。

 

統計の限界

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心理学は日常ですぐさま使えるか?

さてここからが本題である。人間の心理を理解しなければならないシーンが訪れたとしよう。心理学に精通していれば、その時その場面に応じてその人の心理を把握することが可能だろうか。答えは当たり前のようにノーである。

 

さて、心理学という学問は人間がどういうときにどういうことを感じて、どういう行動をとるのか、その傾向を知りたいという学問であった。これに精通していれば、対人において有利になりそうな気がするが、実際はそうでもなさそうである(知っているに越したことはないだろうが)。

 

まず、「人間は不安な状況下に置かれたときには知らない人にでも心を許す」という傾向があるとしよう(そんな法則があるかは知らない。今勝手に作った例題だ)。これが仮に実在する法則だったとして、実験でこの法則の有意性が認められたとする。

では、あなたがバーで見かけた異性にアプローチしようというときに、不安な状況下を演出し、その異性を助けてあげるという方法を取れば相手の心を開くことができるだろうか。

 

そんなものは人によるとしか言えない。心を開いてくれるかは、あなたがそもそも容姿的に優れているのか。趣味が合うのかなども問題になる。心理学の法則は、人間のごく一部の側面にしか過ぎないのである。

しかし、この難癖は少々ひどすぎるではないか。重要なのは、容姿や趣味など、その他の条件を完全に固定したとして、今回の心理学の法則を用いたアプローチが有効かどうかである。

心を開くという最終的な目的に達するに足りるかはわからない(他の要因が影響する)にしても、やらないよりは「有利な状況」に持ち込めるはずである……

というのが、そもそも間違いだと思う

 

そう簡単に心理学を日常に当てはめることは出来ない。というかその姿勢が誤りだとすら思うのだ。

 

簡単な例

この話の本質だけを抜き出そう。人間は、「甘いものを食べたあとは辛いものを食べたくなる」という心理法則があるとする。いや、ややこしい。もっと単純に、「人間は、ぶどうよりリンゴの方がおいしいと感じる」という傾向があるとする(もちろんこの話は嘘だが)。

ではそのような架空の世界にあなたはいるとして、あなたがバーで気になる異性を見つけたとき、ぶどうのカクテルよりリンゴカクテルを奢った方が良いのだろうか?

答えは簡単だ。どちらが好きかを聞いて、答えてくれたほうが正解である。本人がぶどうだと言ったならぶどうのカクテルをおごるほうが良いのだ。要するに完全に好みの問題であろう。

 

心理学は統計:外れも一定数ある

いくら人間全体でリンゴの方が好きという傾向があろうとも、ある個人がそうであるかは別だ。そんなことは考えなくてもわかる。これが心理学の話とどういった関係があるのかと勘ぐるかもしれない。

 

だが、「ぶどうよりリンゴの方がおいしいと感じる」という傾向も、「甘いものを食べたあとは辛いものを食べたくなる」という傾向も、「人間は不安な状況下に置かれたときには知らない人にでも心を許す」という傾向も、これらを明らかにするときにはたくさんの被験者を準備し、統計解析をする。

 

心理学の法則が見つかったとき、それはたくさんの被験者で実験をしたときに、その法則があると言っていいくらい十分に多くの被験者が同様の傾向を示した。

 

ということである。リンゴとぶどうを比較したとき、十分多くの人がリンゴのほうが好きだと言ったとして、あなたが対面している好みの異性がそうであるかなどわからない。

統計というのは要するに、(今回の話では)デタラメに人間を1人選んで、リンゴかぶどうのどちらが好きかを言い当てなければならない場合、好きな可能性が高いのはリンゴの方である。くらいの話である。

可能性が高いというのは、そうでない可能性も低いがあるということである。大体統計解析が必要な話で100%そうであるなんてことはありえない(100%そうならばそもそも統計なんて使う対象ではない。もっと基礎的な原理が見つかるはずだ)。

 

どんな統計解析もどんな統計モデルもそれ自体は真実など明らかにしないと僕は思う(これは賛否あるだろうが)。デタラメな中で予測をしなければならないとき、多少なりとも役には立つだろうと期待して作るものだ。そしてその予測はかなり精度が高くて、99%かもしれない。

しかし今実際に対面している人間が1%側じゃない保証はあるだろうか。

それを確認することができるなら、した方が早いではないか。

雑学程度に傾向を知っておくのは構わないが、本当に知らなければならないのは対面した人間が、実際はどうであるかである。

 

統計は役立たずか (傾向把握と予測)

随分統計に対してネガティブな表現をしたが、そこで統計が役立たずであると言いたいわけではない。何かの傾向を知り、それを役立てることが出来る場面はいくらでもある。

1000万人を対象にする「リンゴジュースかブドウジューズ」のいずれかをプレゼントする企画を考える際、コスト的にどちらかに絞らなければならないならば、「ぶどうよりリンゴの方がおいしいと感じる」という傾向がある限り「リンゴジュース」を選ぶべきだろう。

対象が大きくなって、全体の満足度を高めたいということになれば統計は大いに威力を発揮する。もちろん1000万人全員の好みを把握しており、コスト的にも同等ならば、それぞれ希望する方のジュースを配ったほうが当然良いだろう。

 

 

大事なのは何らかの方法で傾向を把握し、その傾向を念頭に置いた上で何らかの予測をする時、その予測対象の数はどれくらいであるかということである。

予測対象の数が膨大で、個々を調べ尽くすことが困難である場合、予め調べておいた傾向を当てはめてしまうのが得策ということになる。

しかし対個人と接する場合には、予測対象の数は1なので、傾向がどうであれ、しっかり相手のことを知ってあげることに力を入れたほうがどう考えても良いではないか。

 

そして、さっきまで考えていたのは、1人を対象に「リンゴジュースかぶどうジュース」をプレゼントする企画である。そりゃ当然のように法則関係なく本人に聞いたほうが良いに決まっている

 

人間と接する上で大事なこと

 

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対個人オーダーメイドの対応を

実際に、対面した人間というのは話す機会のある人間である。にも関わらず、目をつぶって、交流を絶ち、なんの追加情報も得ようと考えないのであれば、心理学の法則に従うのが良い。しかし、対面した人間にそのような姿勢で望むのは失礼だ。いや、失礼かどうかなんて本題じゃない。

実際に本人と対面しているのならば、その本人が思うことが全てなのであって心理学の大局的な法則の優先順位など極めて低いのである。

「ぶどうとリンゴでは、圧倒的にリンゴのほうが好まれる」という傾向を知っていたとして、対面した本人が「ぶどうのほうが好き」ならば、その人は「ぶどうのほうが好き」なのだ。

法則ではどうだったかなど関係ない。その人が全体の中の外れ値であることも関係ない。本人がそうであるということだけが事実である。

 

個人と接するときにいちばん大事なのは相手を理解することである。法則がどうとか、傾向としてはそうであるとか、みんなはどうであったとか(全部同じ意味だが)、そんなことは当の本人には何にも関係のないことである。

 

自己啓発本や心理学の本について

自己啓発本を嫌う、怪しみ人は多いかもしれない。心理学はそれに比べ学問であるので信用も大きい。しかし、僕にとっては(研究者として真面目にやらない限り)、実生活レベルではどちらも似たようなものだ。

 

自己啓発本は著者の経験則というレベルで、心理学は社会実験というレベルで、何か人間の傾向について述べていたりするわけだが、結局、自分の人生とそれを取り巻く人間たちが実際にどうであるかは、自分で確認するしか無い。 

だから心理学の方は当たる可能性が高そうだし、自己啓発本の方は当たる可能性が低そうだというだけで、どちらも当たることもあれば外れることもあるだろう。

 

 

これは、自己啓発本と心理学の本との違いは「傾向を把握する段階での実験の信頼性だけ」であるとも言える。自己啓発本の方は実験がたったの個人の経験のみである場合が多いが、心理学は統計解析をしっかり行っている場合が多い(後に間違っていたとかはあるかもしれないが)。

科学的な観点からはこれは極めて重要性が高いが、実生活ではどうだろう。

心理学・統計学の観点からは例外である場面に接することも少なくない。そういった場面で、どうすれば良いのか、どういう対応が良さそうなのか、引き出しを沢山準備してオーダーメイドで実践するよりほか無いのである。

 

だから僕は心理学の本も自己啓発っぽい本も構わず読む。科学的に間違っているという批判があっても、別に気にしない。自分の目で最終的に確認すれば良いし、そうするしかないのだから。

 

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なぜこんなことを思うのか

僕はどこかのタイミングで本を読むのが好きになった。自己啓発本なども最初は毛嫌いしていたが、とりあえず読むようになった。ああ、(科学的にどうかはともかくとして)確かにそうかもしれないなと思うシーンが多々見られるようになった。

世の中は科学的とか、合理的とか、論理的とか、カッコイイ言葉で完全に成り立っているわけではない。特にBtoCでの営業を考えてみればよく分かるのではないだろうか。

飲食店でとんでもないクレームをつけている人。ご自由にお取りくださいと書いてある中で、本当にすべて取って持っていってしまう人。来場者プレゼントを繰り返し出入りして貰う人。

世の中には、少数だが変な人もいる。

そして、少数だがいい人や、少数だが面白い人などもいる。

 

人と対面するとき、他の人も示すような言わばありきたりな傾向にいちいち着目するだろうか。その人と対面し、印象づけられるのはむしろ、その人ならではの個性の部分ではないだろうか。

 

大局的な傾向(心理学)であったり、他の人の経験談(自伝や自己啓発本)であったりを頭に入れた上で、実際の生活の中で「この人はこんなことを思うんだ、考えるんだ!!」というところが面白いのである。そしてそう考えると、本当にいろいろな人の考え方を受け入れられるようになる。

 

と思っているのである。

 

 

 

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